コンピューターおばあちゃんの会
小      説


    その二

 生活基盤が川向こうですから、火事と喧嘩が大好きで、大川端(隅田川)でケツ洗ってみろ、などと下品な啖呵が大好き、但し負け犬の遠吠えです。
 まあ、強いて言えば両親とも三代目以上ですから江戸っ子の末席を汚していると思っております。
 親父は本所の材木問屋の三代目で大叔母に言わせれば、大川(隅田川)の向こうの本所・深川なんざー外国扱い。でもキティ台風で大水が出た時に「水見舞いには水」上手いことを言うもんだ。
 あたり一面の水で屋根の上で震えて居た時に、番頭に言いつけて飲み水を届けてくれた。したがって、河童の出る堀には不自由しない。(笑)
 学友二・三人と小遣い稼ぎにダンス・パーティを計画、銀座二丁目のビルのフロヮーを借りて安い学生バンドを雇った。百人ぐらいしか入れない会場なのに、パー券を三百枚売った。オーバーブッキングもいいとこ。当日、芋を洗うような超満員。 階段から表の道路まで人があふれて出て、「幹事出てこーい!!
 金かえせー!! ぶっころすぞー!!」  と大騒ぎ。
 仲間と山分け。トンズラ、、、もう、時効だい。
: rei
代々の墓所が本郷通り東大の先の、追分(西片)にあり、よく「かねやす」の前は通りました。本郷三丁目の「かねやす」は江戸時代からの小間物屋で口紅、白粉(おしろい)、かんざし等、こまごましたものを売っていた。また、それが小間物屋の語源でもある。もとは、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出し大当たりして店を大きくした。芝神明前の「兼康」と本家争いがあり、本郷は「かねやす」と仮名に改めた。
 「本郷もかねやすまでは江戸の内」という川柳は享保十五年の大火で、大岡越前が防災上、江戸城から本郷三丁目にかけて塗り屋、土蔵造りを命じ、大きな土蔵のあった「かねやす」が目立ち、川柳が出来たそうです。
 さて、人生色々、百人いれば百のドラマがある。
 佐藤春夫が「物語というのは、花も実もある絵空事」と何かに書いていたが、虚実とりまぜて人から聞いた話、自分で見た話、多少の創作も加えて、お読み下さった方の無聊を慰める事が出来れば望外の喜びです。
 おふくろの実家に泊まっていると朝五時ごろシビヤ(日々谷)のほうから市電がゴーッと数寄屋橋を渡って築地の方へ走って行く。その頃には、もう若い衆が築地の魚市場で海老の買い付けが始まっている。銀座「天金」の買い付けが終わらないと、海老のセリが始まらないと言われていた。
 曾祖母が三越の横の路地で屋台の天麩羅を揚げていたのが、一流の料亭にしたのですから、大変な努力だったと思います。
一日に二万匹の海老の殻をむいたと聞きました。
 林 芙美子が 「放浪記」で大学での初任給が十円の時、銀座天金で二円三十銭取られたと書いてあった。初めて原稿料が入ったので気が大きくなっていたと。
 古き良き時代も、空襲でなにもかも、スッカラカンの焼野原。
 
次回に
岡部伝蔵

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