コンピューターおばあちゃんの会
小      説

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    その六

 あるとき久保田万太郎さんの基金を作ろうと言う会があって、東京會舘でパーティーが催された。宴たけなわで、もりしげさんが「知床旅情」を歌った、ところが、「白夜」をビャクヤと歌ったために、ハクヤたるべき白夜が、ビャクヤとなってしまった。叔父がすかさずいちゃもんをつけたら、しげさんも負けていず、「じゃー、やーちゃん(叔父の愛称)、会津若松の白虎隊はハッコタイか」と言い返した。 
 昔の銀座のバーには、中々気の利いたバーテンがいて、「風邪ひいてご無沙汰したよ」と言うと、打てば響くで、「ヘントウセンを むなしゅうするなかれ、ハハーン! 時にハイエンなきにしもあらず、ですね」とくる。これも“泣いてバケツをける”じゃないけれど、現在では死語に近い。
 承久の乱で負けた後鳥羽上皇が、隠岐へ流されたとき、忠臣児島高徳は、院の庄で桜の幹に十字の詩を刻んだ。越王「勾践」と、呉王「夫差」との戦いでの、功臣範蠡(はんれい)の忠告を例に引いて、上皇をお慰めしたのだ。「天、勾践をむなしゅうするなかれ、時に範蠡なきにしもあらず」。てんこうせんがヘントウセン、はんれいがハイエン。 歴史を知らないと解けない。
 娘がニューヨークから、孫の宿題で朝顔を育てるので、つるをからませる園芸道具を送ってくれと言ってきた。高い航空運賃を払って、300円くらいのつる棒を送ったら、割り箸で間に合わせたから、いらないとメールが来た。「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」泣いてバケツを蹴る。詰らぬ洒落。
 
    絵:  rei
悪童達のはやし言葉、
 「火事は何処だい、牛込だい、牛の〇〇丸焼けだい」。江戸時代から明治、大正にかけて火事が多かった。関東特有の気象条件で、冬場になれば雨が少なく、空気は乾燥して、さらに強い季節風が吹く。木と紙で出来ている家が多いから、一度火が出ると大火事になる。
 銀座もご多分にもれず、度々火災に遭遇した。「昔恋しい銀座のやなぎ」銀座の柳は、明治15〜20年にかけて、208本の柳が一丁目から八丁目に植えられた。 関東大震災後、
晴海通りにも植えられて、268本となった。銀座は埋立地で水気が多く、桜、松、かえでは枯死したため、水気に強い柳が植えられた。柳はお芝居でも、幽霊の背景として使われるように、決して表通りの街路樹に選ばれるような樹では無いのだが、この事が逆に、人々の眼に新鮮に映って有名になった。お化けも、「もって瞑すべし」だ。大正10年に一旦撤去されたが、「昔恋しい銀座の柳」と言われるようになって、昭和7年、朝日新聞社の東京進出記念企画として復活、268本が植えられて、この年から「柳まつり」が始まった。だが、昭和20年春の三度の空襲で、街と共に八割かたが焼失した。昭和36年地下鉄工事にともない、再び撤去されたが、昭和50年(1975)銀座一丁目と二丁目の間の通りに植えて、「柳通り」の名を冠した。また、同時代に八丁目の「御門通り」「西銀座通り」にも、昔の柳が所を変えて次第に復活していった。
 銀座四丁目の三越は、むかし興論社、中央新聞社、山崎洋服店を経て、三越銀座店となる。山崎洋服店には、大きなショーウインドウがあって、中には金色燦爛の、大礼服を着た人形が飾ってあったそうだ。
 維新後の「天金」の常連の筆頭は、十五代将軍徳川慶喜公で、この、食通であった前将軍は、おしのびでよく見えたという。慶喜公の使われた大ぶりの皿は、「なべしまのお皿」と言って、その後長く、祖父の部屋の長押に飾ってあった。 波の絵を描いた深いお皿で、慶喜公はそれへ、たった一つ、 直径五寸(15cm)もある、かき揚げを、揚げさせて食べられたそうです。
次回に
岡部伝蔵

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