コンピューターおばあちゃんの会
小      説


    その三

 大阪の電気街は日本橋(ニッポンバシ)、 お江戸日本橋(ニホンバシ)は七つ立ち(朝・4時)、 むかし丸太が二本渡してあったから二本橋。お江戸の真ん中の橋が、二本ではゴロが悪いと、いつの頃から「日本橋」になったのかは定かではない。
 少し北の、一石橋(イッコクバシ、日銀の有るところ)は呉服屋の後藤と、南の金物屋の後藤に挟まれてあった。五斗+五斗=一石、あとからコジツケル江戸っ子のつまらない洒落。(斗、石は米を量る単位)
  
    絵  rei   
 
大正三年、日本橋三越が青銅のライオン像を置いた。このライオンにまたがって、しかもそれを人に見られなければ落第しないという迷信が行き渡っていた。ところが、横丁をへだててすぐ角に交番があって夜中にうろついては、あやしまれる。だから中々困難な作業だったが、そのうちこの迷信がおまわりさんに知れて、見て見ぬふりをしてくれるという噂がひろがった。俺も乗ったと自慢する奴が何人もいた。ところが京都から来た奴は、平安神宮の大鳥居の柱を、小便しながら一周すると落第しないと言った。上には上がいるもんだ。ライオン乗りなんざー可愛いもんだ。  

 天皇陛下がお出かけになられるのを「行幸・ぎょうこう」 と言った。みゆきとも読める。 掘割に囲まれた銀座は島みたいなもので、千代田のお城から天皇が築地の先の、お浜離宮へ行かれるのに、晴海通り(日比谷ー築地)を通られずに一本南の帝国ホテル脇の道のほうを通って行幸になった。どうして四丁目の道をお通りにならずに、ひとつ南の裏のような道を、お通りになるのか、それは「電車などの通っている表通りを通っては庶民の迷惑になるから」と、有り難い ご仁慈と伝えられていた。
 そのことが、今にその道に「みゆき通り」の名を残すことになった。 (泰明小学校ー采女橋ー国立癌研)明治四十年生まれの、おふくろが、関東大震災の時、火に追われて、お浜離宮に逃げ込んだ時、門番が自分から開けるわけにはいかないから、「アンタ達が塀を乗り越えて勝手に開けてくれ」と、言ったそうだ。松の枝に火がついて、皆、夢中で枝を折った。あくる朝、丸坊主でみるも無惨な光景だった、と聞いたことがある。今のお浜離宮からは想像もつかない。  
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岡部伝蔵

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