コンピューターおばあちゃんの会
小      説


    その四

 祖母の実家は鳩居堂の隣、中央通りの大黒屋で、横丁(晴海通り)の天金は一段格下だった。そこで天麩羅屋の主人は「親方」と呼ばれていたが、結婚後は「旦那」と改めよと言われて、曾祖母は泣いて悔しがったそうだ。
 曾祖母は一代法華(ほっけ・日蓮宗)で一代限りの信心。池田の家系は後家相で、本人も周りにも、ご亭主が早死にした人が多かった。迷信深い昔の人の生きざまを語るには、宗教の話も避けて通れないと思います。
 孫(おふくろの弟)が生まれた時に、「弥三郎」と名づけたのも、日蓮大聖人が、鎌倉幕府に睨まれて伊豆に流罪された時、お助けした漁師「船守弥三郎」の名から頂いたと聞きました。池田弥三郎(叔父)は、慶応義塾大学文学部教授で、折口信夫(おりぐち・しのぶ)先生の弟子。信夫先生は国文、民俗学者、歌人、詩人でした。
 叔父は、パイプ咥えてNHKの「私の秘密」という番組に出ていたので、ご存知の方もいるかもしれない。
 祖父、池田金太郎の弟が池田銀次郎で、歌舞伎の劇作家、池田大伍のペンネームで「男伊達ばやり、西郷と豚姫、名月八幡祭」などが、代表作。
 はい! 金と銀が揃いました。戦後、焼け跡を掘り返したが小判は出てこなかった、 トホホホ。 
 多少の記憶違いがあれば、お許しを・・。
   絵 rei

 関東大震災当時の天麩羅屋などは夏は休みで毎年、八月一杯商売を休み、九月一日から始める慣わしであった。
 その日、祖母は今の「三愛」の所に有った八十四銀行から、つり銭用のお金五百円を引き出してきた。煙草のバットが六銭、お米が一升、三十二銭だった時代だから、店の者を含めて七十人が逃げるのに、ともかくも飢えさせずにすんだそうだ。和光(服部時計店)の隣の木村屋(アンパンの創始者)から、売り切れだと断られるまで、次々に店の者を使いに出してパンを買わせた。
 みゆき通りから中央通りを横切って、次の横丁があずま通り、その次が三原通り、二つ名の無い通りがあって昭和通り(三十間堀)、木挽橋を渡ると左が木挽町四丁目、右が木挽町五丁目、七丁目に鰻で有名な「竹葉亭」がある。
 歌舞伎座の前が采女町(うぬめちょう)、紅葉川の采女橋(今は川底が首都高速道)を渡ると築地。右手の国立癌センターは、当時、海軍大学校であった。
 築地の親戚(池田銀次郎)の所で、銀座から大八車で運んだ荷物を捨てて、お浜離宮へ逃げ込んだ。翌日、芝から麻布、広尾、渋谷へ出て、小学校の校庭で野宿したそうです。曾祖母の避暑用に、二子玉川の川べりに別荘を持っていたので、そこへ逃げようと三軒茶屋まで来たら、偶然出入りのタクシーにバッタリ出会えて胸をなでおろしたそうです。玉川の土手の外の川べりで、ヒキガエルがよく出てきた。叔父弥三郎の家族は今でもそこに住んでいる。
次回に
岡部伝蔵

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