コンピューターおばあちゃんの会
小      説

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    その七

 枯れ木も山の賑わい、とばかり毎度駄文でお騒がせ致しております。
 中学生の時の、お正月に妹のいる同級生の家で、百人一首をよく遊んだ。百首覚えるのは、中々困難な作業で、勝つ為の秘訣がある。
 百の札のなかに、一字札と言って、最初の一文字を聞いただけで、下の句がわかるのが有る。
 例えば、「あ」は ありあけの、あきのたの、あさぼらけ、 あけぬれば、あしびきの、あまのはら、あふことの、あいみての、あまつかぜ、あさじふの、あはれとも、あらざらむ、ありまやま、あらしふく、あきかぜに、 あわじしま、等十六句もあるが、む、す、め、ふ、さ、ほ、せ、の七枚は一字札である。
 むらさめの=きりたちのぼる、すみのえの=ゆめのかよいぢ
 めぐりあひて=くもかくれにし、ふくからに=むべやまかぜを
 さびしさに=いづこもおなじ、ほととぎす=ただありあけの
 せをはやみ=われてもすえに だけ覚えれば必勝である。
 「憂かりける人を初瀬の山おろし烈しかれとは祈らぬものを」 などは、「はげになれとは祈らぬものを」などと読んで顰蹙を買った。 「大江山生野の道の遠ければまだ踏みも見ず鹿の金〇」などと 揚場(天ぷらを揚げる)の職人が、替え歌を口ずさんでこっぴどく祖母に叱られていた。不思議とこの手の話はよく覚えている。

 銀座にパールの「田崎真珠」が進出して、K組が工事をした。中央通りの一本裏手の、金春通りから入れとか、朝八時前に納入しろとか、一方通行で日中は混雑するので遠くに車を止めて担ぎ込んだ。この金春通りは、能楽金春流の金春屋敷跡で、昭和五十四年に五十余店の店主が、金春通り会を結成した。昔、此処に駄菓子やが有って、そこのおばあさんが猿を飼っていた。揚場の職人と一緒に、猿にラッキョウを与えた。剥けども、むけども皮ばかり、猿は歯をむき出して怒った。駄菓子屋のばあさんも、入れ歯とばして怒った。
 銀座の話が脱線して百人一首の話になり又々飛び火して児島高徳の古事になりました。 お正月に遊んだあと、福引があって、児島高徳と書いた紙を引き当てると、景品は鉛筆でした。その心は「木を削って書く」でした。

 
    絵: rei 
祖父・金太郎の妹の大叔母は、伊東深水画伯の夫人(朝丘雪路さんの母親)が居た築地「新喜楽」の女中頭で、祖父の所に出入りしていた信州・湯田中温泉出身の下鳥修生氏(画商)と一緒になった。しかし、商売柄 彼は道楽者で大叔母に叩きだされた。やはり池田家は後家相である。戦後本所(私の家)へ よくきていた。秋田雄勝郡の湯沢町で、酒造家の「爛漫」のご主人や、製材工場を持つ深瀬倉次氏らに、日本画を販売していてその代金を、深瀬氏が木材で払うと言って、一時、私が本所・深川で材木問屋に卸した事があった。 

 江戸時代に犯罪を犯した者の刑罰に、処払いという罰があった。江戸市中からの追放である。銀座中央通りから、新橋に向かって、築地川に架かっていたのが「新橋」でこの橋の先は、江戸ではない。見送りに来た家族は、別れを惜しむのに、表通りでは恐れ多い、とひとつ上流に架かっていた泪(ナミダ)橋で、別れを惜しんだ。それで、何時の頃からかナミダ橋が難波橋になった。そのまた、一つ上が「土橋」で外堀通りに架かっていた。北へ田村町、佐久間町、溜池、赤坂の弁慶堀から半蔵門でお城と繋がり、土橋のすぐ上の高速道路がかっての外堀で、山下橋を北へ渡ると左に帝国ホテルがあり、山下橋の先の晴海通りに架かっていたのが、銭湯がからっぽになる、と言われた「君の名は」で有名な数奇屋橋であった。    

 江戸時代から、明治・大正にかけて火事が多かった。明暦の振袖火事、天和のお七火事、元禄の勅額火事、水戸様火事、享保の小石川馬場火事、明和の目黒行人坂火事、寛政の桜田火事、文化の丙寅火事、文政の佐久間町火事、安政の地震火事等大火事だけでも十回も有った。明治五年の大火後、三越の横丁から和光の北側、 数寄屋橋寄りに三軒長屋が有って、池田家はそこへ移ってきた。地主は人力車を作っていた某で、四十二年間に汚い長屋に手を加えて、料理屋らしくした。 
 明治六年に世界一の煉瓦街が出現して、常に銀座は最先端を行く街、良いものしか生き残らない街を、誇ってきた。急激な発展の裏には様々な悲劇も有った。大正五年に、地主から土地を買ってくれと話があり、二万三千円で手付金まで用意させられたが、地主は二股かけていて、隣の服部に三万円で売ってしまった。四十二年かけて改築した建物を、どこへでも持って行けといわれて裁判をおこした。結局は池田家の負けであったが、裁判官は法的には池田家の負けだが、情においては忍び難い、と言ってくれたそうだ。それで五丁目の三愛側へ移転したが、訴状に 池田〇女、無筆につき代理人 某と書かれてあって、曾祖母は其のことを非常に悲しく思って、長男は 店を継げ、他の者は学問に精をだすようにと言うのが、その後の池田家の家訓になった。騙されて土地を取られて発狂したり、自殺した人も枚挙に暇が無いと、叔父が話してくれた事があった。   
 
次回に
岡部伝蔵

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