1. 三 重 (東京より帰郷中)
飯田江美子

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943年(昭和18年)春、私は両親の「遠くには行かないで」、との説得にも耳を貸さないで、東京の学校を受験して幸い合格した。今ならさしずめ海外留学以上の覚悟で、学校に隣接した学生寮に入ることを条件に許され上京した。始めの一年くらいは向学心に燃えて楽しい日々を送ることが出来たが、やがて食料が徐々に乏しくなり、外国語などが授業から消えていった。はたまた軍需工場へ学徒動員で、頭に日の丸の鉢巻きをして、それまでの着物に袴姿など、夢のそのまた夢の変わり様となってしまった。  工場で働く婦人の切手の切手工場では鉄砲作りをした。いま思うと全くナンセンスなことであった。幸い私は事務を担当したが、友人は現場で油にまみれていた。工場への出席日数が卒業の単位取得の条件であった。そして学友は一人減り、二人減りして、次第に寂しくなっていった。

 当然のことながら私の家からも「帰れ、帰れ」と矢のような催促である。食料は益々欠乏し、工場の休日には友人と一緒に先輩のいる田舎に買い出しに行き、お芋を背中に沢山背負って帰った。それが教務主任に見つかり校長室に呼び出されてきつい説諭。それでも空腹には勝てずまた繰り返していた。遂にやむなく意志に反して家に帰ることを決意した。その頃は乗り物の確保が至難で、中央線の市ヶ谷駅で七輪に炭を入れ、毛布を被って徹夜の行列をした。二日目に私の名を呼ぶ軍人がいるではないか、聞くと実家からの依頼で私を迎えに来たのだという。後についていていくと何処でもフリーパスである。全く軍人に権力があった時代を象徴していた。

 やっとのことで実家に帰り着いたが、そこには過酷な試練が待ち受けていた。家族とひとつところで暮らせるつもりが、戦争が激化し、毎日のように空襲を受け、日に何度も防空壕に入る始末。夜は電気の明かりを外部に漏らさないように黒い布をかぶせ、雨戸を閉め、きちんと身なりを整え、いつ敵機が来てもあわてないよう準備して就寝した。
 「空襲警報、空襲警報」のサイレンとともに、再三ラジオから「B29伊勢湾上空に襲来」の警告が入る。急いで家族で庭に掘った大きな防空壕に飛び込む。時にはご近所の方まで入れてあげることもあった。夜明けともなると米軍機はどこかに飛び去った。昼間は何故か襲来がない。その間、私たちはバケツに水を入れて消火訓練、槍を持っての訓練...など全く無意味なことに時間を費やしていた。

 そうこうするうち、遂に大空襲が来た。もう自分の家の防空壕など何の役にも立たない。壕の中から外をうかがうと、火、火、火、だ。幸い病弱の父と弟は早くから伊勢神宮の森にある頑丈な穴に避難している。兄は戦地にあって不在。私は母と二人でこれ以上ここにいては危険と、避難することに決め防空壕を出たが、空は一面真っ赤に染まり逃げるのも困難。乳母車に非常食の入ったトランクをのせ、布団を二枚積み、左右どちらに逃げるべきか躊躇(ちゆうちょ)しつつも、後はもう運命と必死に走った。母が「江美子、どんなことがあっても乳母車から手を離しては駄目よ!」と大声で叫んだ。「手を離したら二人共バラバラになるから、分かっているね!」。もうその時は足下に焼夷弾がバラバラ落ち始めていた。
 どこへ逃げてよいやら、暑いやらで、とうとう母は乳母車に乗ってあった布団を、道路際の防火用水に浸けて、びしょびしょになったのを私に被せ、再び「手を離さないで!」と叫び続けていた。私たちは右往左往しながら、火の無いところ、爆弾の落ちてこないところを探しながら逃げ回った。そう、二時間くらいは走り続けたと思う。

 夜が明けて飛行機の爆音が遠ざかっていった。今日はもう空襲は終わりだ。良かった、助かった、生きていた。私は母と土手の上に立っていた。そこでこれまで必死で掴まえていた乳母車を手から離してしまった。あわてて止める間もなく、乳母車は下を流れる大きな川に沈んでいった。二人は顔を見合わせてつぶやいた。「とうとう二人になってしまったね、これからどうしようか、お家は焼けたし、家族は死んだし、トランクの中に入れてあった僅かばかりの食料も、貴重品も全部川に落としてしまったし.....」。母は「田舎のおばあちゃんの所へ行こう。そこで畑でもして暮らそうよ」といった。でもその前にもう一度家の跡を見ていこう、と空腹を抱えながら歩き出した。

 家の近くまで来ると顔見知りの小父さんが「お宅焼けてないよ、残っているよ」という。私たちは思わず走り出した。そこには我が家がそっくり残っていた。頬をつねる。痛い!本当に痛い!。二人は肩を抱き合って泣いた。ところがもっと驚くことがあったのだ。なんと、父と弟が家の中から出てきたのである。夢かと思いまた頬ペタをつねり合った。何故?どうして?我が家は伊勢神宮の前にあった。米軍は市内だけを焼き払い神宮は残したのだ。

 戦局はその後更に悪化し事態は更に厳しくなった。広島、長崎への原子爆弾投下である。
 日本が無くなるとさえ思うところまで悲惨な戦争が続いた。東京では空襲で沢山の死傷者が出て、親を亡くした孤児や浮浪者が続出、焼け野が原と化した。食べ物も、寝るところもない人、人、人...。国民は不安な日々の連続であった。

 昭和20年8月15日、遂に終戦。遅すぎる。私は学徒動員先の軍でその放送を聞いた。皆で泣いた、そして、心の中でほっとした。もう逃げなくて良い。戦争は終わったのだ。大きな声でアナウンスがあり「女性はすぐ家に帰るように...」。米軍が上陸してくる。女子供は危ない、そして軍人たちは皆責任をとり割腹自殺する、との言葉が耳に入り友人と急ぎ帰宅した。家族はラジオで天皇陛下がご自分の声で終戦の報告をされ、敗戦ではあるが、戦争が終結したことは紛れもない事実と受け止めることにした。とにかく今日から空襲だけはない、枕をして明かりを点けることもできるのだ。

 戦争が終わると、日本ではこれまでに無かったいろいろな社会現象が発生した。田舎の伊勢でさえ進駐軍の上陸があり、そこここを米兵が闊歩(かっぽ)し始め、夜間は外出するなといわれた。その頃東京では沢山の米兵が街の中にいた。珍しいお菓子をめがけて子供たちが米兵に群がった。いわゆる「ギブ・ミー・チョコレート」の始まりである。その上、米兵の相手をする夜の女も出てきた。デカダンスの時代であるが、これとても敗戦の憂き目、致し方ないことであったのかも知れない。

 やがて、学校から半年の期間短縮で卒業式を行うとの連絡があり、私は急ぎ無理をして上京した。しかし校舎は跡形もなく焼け落ちて、登校する友人たちはかつての半数にも満たなかった。先生方も薄汚れた身なりで見るも哀れな状態であった。その他は連絡もとれず、生死さえ分からなかった。一応卒業証書だけは手にしたものの、中身のない勉強もしていない学生生活の哀れさをイヤというほど感じた。こんな筈ではなかったのに.....。東京には住む所もなく、行く学校もない、その上、怖くて女一人など暮らすことは到底無理と、とりあえず伊勢の家に帰った。

 戦争は終わったがしばらくはどうなるのか見当も付かなかった。それに我が家は真珠などを商売していた。大きな体の米兵が真珠を買いに来る。このため私は急遽英会話の勉強をすることになった。
 戦後の話は少しばかりの紙面ではとても語り切れない。我が家の中だけでも、姉が大阪から一歳と三歳の乳飲み子を背負い、線路づたいに三日がかりで実家に辿り着いたトタンに栄養不良で幼子を残して死んだ。その姉の夫君も私の兄も戦地に行ったきりで消息が分からなかった。

 現在私たちが享受している豊かな生活は、戦争の犠牲となられた多くの人々の無念と、残された人たちによる幾多の困難の克服と努力があってのことと今更ながら思う。この原稿を書いている時にも、幾度も考え込んで涙を拭った。これを見て主人が、またいろいろなことを思い出しているのだろうという。
 その後、私は手段を講じて再び学校に戻り、短縮した授業を取り返すべく、校舎の一部を借りたりしてささやかな学生生活をさせていただいた。お陰で今は故人となったかつての恩師の墓参などを級友とともにしているが、いつも顔を合わせると、あの戦争の話に尽きてしまう。矢張りそれは私たちの大切な青春の時代にあったことなのだ。私は思う、もう戦争だけは嫌だ、嫌だ、絶対に嫌だ.....と。

 
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2. 東 京
飯田雅代
 「終戦の思い出」ですが、三人の兄姉が疎開していたときのことを、後に父から聞きました。今の若い方々にはとても想像すら出来ないことをしてきたのですね。この私でさえも驚くことばかりですから.......

 空腹に耐えかねて、夜中に学童疎開の宿泊先のお寺から抜け出し、裏の墓地にある木の実を採って食べたと聞きました。また、自分の子供たちに送ったおやつは、一度も本人たちに届かず、先生たちの手元に止まっていたとか。そんな思いをして終戦を迎え、疎開先から布団と一緒にシラミを持ち帰り、物置に置いたその布団は、ある朝すっかりドロボーに持って行かれたそうです。
 買い出しに行くとき、やせて目ばかりギョロギョロしていた息子(私の兄)を連れていったところ、帰途、憲兵に呼び止められ、絶体絶命と思っていたら見て見ぬ振りで通してくれたとか。

 妹が8月13日生まれなのですが、母は空襲警報がなると、2歳の息子に布団を掛けて、自分は防空壕に入ったと聞きました。
 私自身の思い出としては、庭に掘った防空壕の中で、ある朝目がさめたら誰もいなくてワーワー泣いたのを覚えています。(そのころからの泣き癖が、まだ直らないのかな?)

 また、空襲が終わった後の真っ赤な空の色が忘れられません。西の方角だったと思うので、夕焼けなのか、火事なのかはっきりしませんが、あんなに見事な「赤」は、以来見ていないと思います。まだ5歳になる前のことなので戦争についてはあまり沢山の記憶がありません。

 
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3.朝鮮(現在の北朝鮮)・元山
岩崎道子
 明日引き揚げ列車が走るという伝達は夕方もたらされた。昭和21年4月18日、当時北朝鮮の元山に住んでいた私たちは、毎日のように父から聞かされていたあのあこがれの日本内地へ帰るべく、リュックに詰められるだけの衣類と、手提げに食料を持って駅に向かった。静かにただ黙々と人が集まる。車両は貨物列車。両端に女・子供、扉がある真ん中に屈強な男性が陣取る。私の隣にはからだの具合が悪い男性が座った。列車はしばらく快調に走ったが興奮して眠られない。私は終戦を迎えたときからのことを走馬燈のように思い巡らせていた。

 8月15日は前日と同じ厳しい暑さだった。いつものように母の着物で作った標準服を着て営林署へ出かけた。標準服は毎日の炎天下の作業で背中がすっかり日焼けをしている。朝礼の時、「今日お昼休みに重大なお話があるので広場に集まるように」と言われた。8月9日にソ連が参戦して以来、夜中になると決まって聞こえる飛行機の爆音。いつでも逃げられるように着の身着のままで寝ていたので、枕元に用意してあった煎り米とおにぎりの入ったリュックをもって防空壕へ、ヒュー・ヒューと降ってくる焼夷弾の音がみんな自分の頭上へ落ちてくるようで震えが止まらない。空襲解除のサイレンとともに今日も無事だったと床につく。こんな毎日でへとへとに疲れているのに何のお話だろう。皆疲れていたせいか校長先生のお話が意味不明だった。家に帰ったら家中の様子がおかしい。そこではじめて父から日本が負けたことを聞かされた。

 次の日、いつものように学校近くの通称朝鮮部落を通ったが、気のせいであろうか何か不穏なものを感じた。朝礼ではこれから家に帰って指示を待つようにとのこと。道路では「起て万国の労働者....」とインターナショルを歌いながら、大極旗(旧・大韓帝国の国旗)を持った長い行列が続いていた。その日から夜間の外出が禁止された。日本軍が上陸してくるソ連軍と最後まで戦うと山に立てこもった。元山は海と山に囲まれた地形だったので、私たちは海に陣取ったソ連軍と、山の日本軍の緊迫した空気の中で何日かを過ごした。
 そのうち日本軍が山を下り、丸坊主の人相の悪いソ連兵が市内を横行しだした。年頃の娘を持つ家は毎日戦々恐々。そしてこのころから一日中外出禁止となった。

 もともと北朝鮮は寒冷地のため食糧は不足気味だったのに加え、終戦を契機に食べ物の値段が高騰した。私が小学校の式典に着ていった紋付き袴がカボチャ一個と交換されるのを悲しい思いで見た。物々交換が次第に厳しくなっていく。この先どうなるのか誰も判らない。私たち子供は親の庇護でさほど苦労らしい苦労もなく一日一日を過ごしていたが、大人たちはどんな思いで日々を過ごしていたのであろう。毎日デマが飛び交う。「引き揚げ船が今晩岸壁に着く」と。そしてそれがデマと知りながら喜んだりがっかりすることの繰り返しであった。

 突然列車が止まり私は現実に引き戻された。どうも野原の真ん中らしい。いきなり扉が開きソ連の軍人が入ってきて懐中電灯で車内を照らした。急に彼は私のほうに歩み寄り、隣の男性にロシア語で話しかけた。そのうちに声が荒くなり、いきなり拳銃の手元側側でその男性を殴打。「ヒーッ・ヒーッ」。悲鳴がだんだん小さくなっていく.....。私は両手を胸に息を詰めてただ終わるのを祈るだけだった。女性たちの中にいる男性を誤解したようだが言葉が通じない。

 北朝鮮占領ソ連軍軍票そのうちに連絡が入り、ここから先の司令官が引き揚げを認めないので、明朝元山に戻るとのこと。それではこれまでの苦労が水の泡だ。私たちは深夜見張りの兵士がいなくなるのを待って、次々に列車から飛び降り、暗闇のなか細い道を追いつかれないように黙々と歩いた。いつの間にかグループは六十人ほどになった。逃げてきた怖さがあって、背中には詰めるだけ詰めた重いリュックがあるのに、いくら歩いても疲れない。ところが夜が明けかかった頃見ると、あんなに歩いたはずなのにすぐ近くに駅舎が見えるではないか。なんと私たちは駅の周囲を必死に歩いていたのだ。

 翌日、私たちはソ連兵に出会ってしまった。姉を渡せと迫る兵士たち、親兄弟はもとより周りの人たちも必死に人垣をつくって姉をかばった。身につけている時計などを渡し、それはかなり緊迫したものだったがどうにか無事切り抜けた。それから十日間、来る日も来る日も夜歩き昼寝る生活が続いた。朝鮮半島の占領地域を北半分をソ連、南半分をアメリカと分断していた北緯38度線近くの部落で遂に捕らえられてしまった。お金を持っていないかどうか執拗に聞かれた。そして一人一人荷物の検査と詰問。「もしお金が出てきたら子供といえどもここに取り残す」、「だから事前に申告するように」と言われた。私は胸が痛いほどドキドキした。実は引き揚げのデマが飛んでいた頃から、毎日毎日紙幣をクシャクシャに揉んで布状態までにして襟の内側、ゴムひもの部分などに縫い込んであったのだ。

 そこも無事通過して38度線の境界の川を渡ることになった。父が朝鮮語で交渉をして、やっと話し合いがついた。このあたり北朝鮮側は山、南朝鮮側は平地である。私たちは静かに船出した。ここで発見されたらこれまでの苦労が水の泡となる。みな息を詰めて船底に屈み込んだ。突然「パーン」「パーン」と銃声がして、船の周りに水しぶきがあがった。駄目だ、やっぱり駄目だった。私たちはここで死んでしまうのか。思わず姉妹が手を取り合った。しかし船頭も必死だった。自分たちの命もかかっているのだから。蛇行しながら船はやっと南朝鮮側に接岸した。私は上陸してもなお後ろから追われるような感覚が残り足早に歩いた。米軍の基地に着き頭からバケツ一杯のDDTを掛けられたとき、やっと脱出成功の実感をかみしめ、むせ返るほどの強いにおいのするその場に、転がるように寝込んでしまった。

 私の8月15日は、この日昭和21年4月29日と今でも思っている。振り返ると、私たちの旅はあこがれの内地へ帰るという目的と、歩く距離が見通しが付けられるものだったが、世界にはいまも終わりの見えない旅を続ける2次3次の戦争犠牲者がいる。国立歴史民族博物館の佐原真氏の言われるように、これまでの人類の歴史を45メートルとすれば、その中の僅か8ミリメートルを占めるにしか過ぎない戦争の時代。矢張り話し合いだけでは無理なのであろうか。

 
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4.滋 賀 (名古屋より疎開中)
飯沼トキ
 昭和20年3月の大空襲の後、名古屋に住んでいた私たちは、本籍地の滋賀県蒲生郡南比都佐村(現・日野町)に疎開することに決めた。5,4,3才と三人の幼児を連れて名古屋駅から乗り込んだ列車の中で、アメリカのルーズベルト大統領死去のニユースを知った。半日がかりで着いた琵琶湖の南西にあるこの村は春祭りをしていた。そして迎えられた親戚の家でのご馳走の山はまるで別世界のようであった。

 稲の刈入れの切手昔から誰も住んでいないが籍だけはある村に、小さい家と少しの畑もある自分名義のその家で、母子4人の暮らしが始まった。ラジオも新聞もなく、夜が明けたら起き日が暮れれば眠る。全く自然人であったが遠慮もいらないので、子供たちと気楽に暮らしていた。  家の周りは一面の田圃で近江の米どころ。戦時下の食糧増産に大忙しである。やがてヤミの無いのが自慢の村の米作りが始まった。当時の田舎と都会では、時代劇から現代劇の世界に突然入り込んだくらいの差があったと思う。何も仕事のない私たちは、毎日米作りを眺めて暮らしていた。

 家の前にある青田の稲が大分伸びてきたころ8月15日がやってきた。天皇の御放送があるというので、大阪から疎開して来ていた舅(しゆうと)、姑(しゅうとめ)弟妹など、家族一同が親戚のラジオの前に正座した。放送はひどい雑音で全く聞きとれなかった。私たちはそのとき天皇は「国民一同しっかりやるように」と仰せられたのだと思ったが、夜になって日本降伏を知り、呆然として暫くは言葉もなかった。
 こうなっても、村の暮らしは翌日からも全く変わらず、皆が食糧増産に励んでいた。秋になり色付いた稲が刈り取られ収穫が終わる。私たちはこうして米作りの一部始終を見てその苦労を知ったのであった。

 当時、戦災地に帰ることには厳しい制限があったが、12月はじめ私たちは転入を許された。私は名古屋駅を出て初めて進駐軍を見た。そして、アメリカ兵にはいろいろな人種がいるものだと驚いた。一家は焼けなかった東山の家に家族5人、ケガも病気もなくもとの暮らしに戻ることが出来た。

 私は、戦死、戦傷、戦災などの方々、村での暮らしを助けていただいた方々への感謝の思いを今も忘れることは無い。そして、日本の家族の心をこれからも大切にしたいと思う。
 なお、一度の応召の際に即日帰郷となった夫鼎には再び召集令状が来ることは無かった。その夫も昨年(平成9年)88歳で亡くなった。

 
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5.愛 知(名古屋より疎開中)
今井明子
れから もう 五十数年たちましたか。
数多のことが 遙か 忘却の彼方に....
でも、私の心には 鮮明に 焼き付いています。

「八月十五日」、 青い 青い空の日でした。
今日は 何故こんなに 静かなんだろう
と 思いました。

四月、 入学試験を終え 晴れて学生となった私。
でも 入学式の翌日から ペンの代わりに
機械と向き合って 軍需工場で 働きました。

昼、 空襲警報警報が鳴ると 防空壕に 逃げ込み
その上を 機銃掃射が.... 高い空から銃弾が
バリバリと 音を立て 地を跳ね 駆けていきました。

夜、 爆音が聞こえると 敷き布団を背負い 逃げる。
  藪の中で すだく虫の 鳴き声が 無常。
それでも ひとときの 眠りを貪ったのです。

「八月十五日」、 青い 青い空の日でした。
今日は 何故こんなに 静かなんだろう
と 思いました。

数日の夏休み、 私は 疎開先の実家で
安らいでいました。 でも、戦いは
  そこにも 身近に 迫ってきました。

連日、 何機も 何機も 空を覆い
居丈高に爆音をたて 市街地目指し 飛び去る
あの B29爆撃機の 姿がありました。

静寂が 戻ると、 屋根に登り 遠くを見渡すのです。
今日は あっちの方に ものすごい火の手が....
おお、神様 お助け下さい!

夜は、 照明弾が落とされ はるか彼方 闇のなか
一角が パッと 明るくなり やがて炎上。
こないだ ノートを買い求めた あのお店も ない....。

たまさかに 訪れる 懐かしい町に
失われし 友よ 思い出よ....。 寂しく
焼け野原に 佇み、 ひとり流す 涙。

「八月十五日」 青い 青い空の日でした。
今日は 何故こんなに 静かなんだろう
と 思いました。

ふと付けた ラジオのスイッチ。 そのとき
私は はっきり聴いたのです。 天皇様のお言葉を....
「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び....」 と。

総てが 終わったのです。
その夜 私は 防空頭巾を取り 朝までグッスリ
眠りました。十八歳の 夏のことでした。

そして、今見上げている あのときと同じ 青い 青い空。
パソコンに 興じている孫達は あの頃の私と 同じ年頃、
五十年後に かれらは 何を 思うのでしょうか?
 
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6.東 京
大石君伊
 終戦直前のある日、真昼間の東京の上空にB29が一機現われました。高射砲の音は聞こえていますが敵機に届いている様子もありません。その時、航空兵の切手小型戦闘機が一機B29に体当たりしていきました。ところが火だるまになって落ちていったのは小型機のほうでした。二機目も、三機目も火だるまになって落ちていき、B29は細い煙を吐きながら飛び去りました。上空を見ていた私達は声も出ませんでした。それからまもなく終戦になりましたが、この光景を思い出しますと今でも何とも言いようのない気持ちになります

 日本橋の丸善の地下食堂でお昼に美味しい雑炊を売っていました。お箸をもって長い列を並び、あと二、三人で食べられるというときに警報が鳴ると四方へ散って避難しました。こうなるとお昼抜きです。このようなことが何回かありました。
 電車が止まって夜更けに有楽町から蒲田まで歩いて帰ったこともありました。思い出したらきりがありませんが、私は戦争体験といえるほどの生々しいものは味わっていません。しかし次の世代に少しでも語り継ぐことが出来るように、その悲惨さを再確認する必要があると思いました。原爆資料館も行ってみたいと思います。

 当時は食べるものも無く大変な毎日でしたが、老いも若きも手を取り合って一生懸命生きていました。今の時代より毎日が充実していたように思います。若かったからでしょうか、待ちこがれるという青春もありました。

 
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7.長 野 (東京より疎開中)
大川加世子
 朝からじりじりと太陽が照りつける暑い日だった記憶が、50年以上たった今でも鮮やかに蘇り、瞬時にタイムスリップして、10代の三つ編み髪の少女にたちかえる。
 朝、学校の朝礼が済むと教室には入らず、先生に引率されて軍需工場へ...。そのころ私達は軍用機のエンジン覆いを作っていた。来る日も来る日もカンカンと槌をジュラルミンの覆いにぶつけて日が暮れた。日本はこれからどうなる?なんて考える意識はまだ無い幼さだった。中学生の女の子の作った飛行機が本当に空を飛んだのだろうか?空中分解もしないで....。

 最初の疎開地千葉県印旛沼は、銚子沖に停泊している米航空母艦からの艦載機の切れ間のない空襲に、それを東京に入れまいと迎え撃つ日本機との空中戦の戦場に当たっていた。学校の行き帰りには、操縦士の顔が見えるくらいの低空からの機銃掃射を浴びて逃げ回り、家に着くとほっとしたものである。

 アメリカ機4機に日本機1機の割合での空中戦だったが、悲しいかな撃墜されるのは殆んど日本機で、たまに米機が撃たれ、中から操縦士がパラシュートで脱出すると、大人たちは竹槍を持ち走っていったのを、恐る恐る隠れて見ていたものである。もうこんなことは本当に懲り懲りである。

航研機の切手父が駒場の航空研究所に20年近く奉職していたので、よく飛行機乗りの将校たちが遊びに来た。「あぁ、この世の空気を吸うのも後一週間か....」なんて言っているのをきょとんとして聞いていたが、確実に一週間後には「○○隊玉砕」と新聞に出た。こうして若い命は次々と空に散った。軍歌とは悲しい歌である。決して勇ましいなどと思わないで。ましてや、かっこいいなんて!

 20歳前後の若い特攻隊の青年たちは出撃に際して「行って参ります」とは決して言わなかった。皆「行きます」といって帰りのない飛行に飛び立った。出撃前日彼らを慰めるのは美味しいごちそうでも、美しい音楽でもなく、ただ、幼い子供だけだったという。この子たちの未来のために自分の命を捨てようと、これ以外に心を納得させる理由が見つからなかったのである。

 二番目の疎開地長野の諏訪湖畔で私は終戦を迎えた。
 昨日まではいかに国のために死ぬか、美しく死ぬか、死ぬことしか教育されなかった。8月15日、今日からは生きていいのか?死ななくてもいいの?と何度も大人に聞いた。そして自分は本当に生きて良いのだと、希望が静かだがじわじわと身体の芯の方から湧き上がり、突如全身が空中を舞った。生きよう!精一杯生きよう!沢山の青年たちが命に代えて与えてくれた平和な世界を、一分たりとも無駄にしないで、命ある限り生き抜こうと私は心に誓った。53年前の夏の盛りに...。

 
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8.宮 崎(東京より疎開中)
川口文子
 昭和二十年八月十五日、私の生涯の中で忘れ得ぬ日である。暑い暑い一日であった。そのころ私達は、朝昼夕にアメリカ海軍艦載機による爆撃を受けて、生きた心地のしない毎日を送っていた。それが突然無くなり正午には重大放送があるとのことで、ラジオのある家に町内の人々は集まって玉音を拝聴。雑音が多くハッキリとは聴きとれなかったものの「忍び難きを忍び」の仰せでこれは戦争の終結だと悟った。「悔しい」と泣き出す人もあったが、私自身はホッとした気分の方が強かったことを記憶している。

 五月二十五日の東京大空襲で我が家は丸焼け。母子三人、命だけはあったものの夫は出征中。無一物になった私たちは、長男三才十一ケ月、長女一才六ケ月。この二人を連れて宮崎県延岡市へと、実家の母も一才九ヶ月の孫を連れて私達親子五人どもども疎開した。
 東京発はたしか六月はじめで、延岡着は六月三日くらいであったように記憶している。それから十日足らずで延岡の大半が空襲で焼失した。全然知らない土地での戦禍である。私達は海岸近くの砂浜に掘られた蛸壺のような防空壕で、全員生きた心地無く一夜を明かした。

 その二ヶ月後の八月十五日であった。なお辛いことには、二十一年の暮れに、既に十九年五月に夫は戦死という公報を受け取り、とても筆舌には尽くし難い辛い思いをさせられた。でも私は頑張った。よくここまで生きてこられたと、つくづく思う今日この頃である。

 
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9.未出生
金山 勉
 広島、長崎に原爆が投下され、日本が無条件降伏をしたあの夏の日、私の父は広島からさほど離れていない軍の病院にいた。父は軍務の過労が重なり、脊椎カリエスを患っていたのである。「生きる運(生運)」という言葉があるとすれば、父は常にこれと隣合わせて貰って今日まで生き長らえている。今年75才の父は、原爆が投下された一日前に、爆心地から離れた病院に転送となり無事だった。

 父は山口県で育った。戦況が厳しくなる中で、満州へ出征した父の無事生還を、私の祖父母は一心に祈ったという。山口には出征兵士の家族たちが無事の帰還を祈って、息子たちの写真を奉納した神社がある。その名を「三坂神社」。別名「弾丸よけ神社」という。つまり、非情に敵側から飛んでくる弾丸に自分の父が、夫が、あるいは兄弟が当たらないようにと願を懸ける神社で、全国各地から出征兵士たちの安全を祈る写真が届けられたという。

 戦後40年を迎えた年に、私はここで引き取られることもなく、ひっそりと眠る写真を手に取ってみたことがある。出征の際、家族に精一杯のりりしさと心意気を見せている写真の中の若い兵士たち。私の父のように無事帰還したものは、家族とともに神社を訪れ、弾丸よけの願がかかった写真を引き取っていったという。

 残っている写真を公開して家族に返還したいと、神社が呼びかけていた時期もあった。それでも引き取られることもなく、未だに神社に眠る若い出征兵士たちの写真の山。もうすぐ戦後53年目の夏が来る。時とともに戦争の辛い思い出は、神社で眠り続ける写真のように、セピア色になり、ひび割れ、風化していくようにも思える。

 
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10.未出生
金山智子
 私の亡くなった父方の祖父は海軍の軍人だった。私は幼いときから20年ほど一緒に暮らしていたが、祖父から戦争の話を聞いた記憶はほとんどない。いまでも93才になった祖母からはよく戦時中の苦労を聞かされるが、何故か祖父は何も話さなかった。毎年欠かさず靖国陣社に部下の冥福を祈りに行っていた祖父....。

 祖父が、晩年、入院した。その頃から祖父はよく病室の白い壁に部下の兵士たちの靖国神社の切手姿を見て苦しんでいた。祖父の葬式の時、私の父が挨拶の中で言った。「父はわれわれ子供たちに殆んど戦争の話をしませんでした。恐らく戦争を経験した人はそのことを他の人に話す人と、話さない人がいるのだと思います。父は後者でした。恐らく、人に話すにはあまりにも辛く悲しいことだったのだと思います。特に、自分は生き残り多くの部下を失ったことは、死ぬまで辛いことであったと思います。」たしか、このような内容だったと思う。人に話せないほどの辛さや重責、それを死ぬまで自分の中にしまって逝った祖父。

 軍艦を指揮し、皇室付き武官であり、今でも戦争をテーマにしたテレビ番組や本にたまに見かける祖父の名。そういった資料を大切に収集している父。祖父が亡くなって既に15年あまりになるが、いまだに祖父の語らなかった部分を知り、理解しようとしている父。そしてそれを私たちに大切な歴史の一コマのように語ってくれる父。祖父から沈黙を通して、戦争は確かに私たちに伝えられている。

 
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11.群 馬
栗田秀鳳
 出陣を前にして搭乗員は地下防空壕の薄暗い裸電球の下に集められ、ルソン島の特攻救出作戦が命ぜられた。航空参謀の説明によると、「敵の反撃は熾烈を極め、四航軍窮地に陥り支援救出を待つこと切なるものあり。ラオアグとの通信途絶し詳細不明なるも、本日特攻救出作戦をラオアグに対して行う。敵地に強行着陸することになるが、戦況に鑑み任務を全うすべし」

 南国の太陽は西に傾き愛機はバシー海峡を一路南下、翼端にしぶきが飛び散るほどの超低空飛行で飛んだ。遙か西の方、南シナ海の水平線に没せんとする太陽が茜色に空を焦がしている。こんな美しい空のもとで死闘を繰り返しているとは。今までも幾度となく覚悟を決めたことがあったが、今日こそはいよいよ最後の日となるかも知れない。「そろそろ敵さんお出なさるぞ。股間の玉を握りおろしておけ」歴戦の豪胆をもって鳴る機関士、伊能準尉の声が伝わる。

 ルソン島の北端からは椰子の葉が吹きちぎれるように流れる超低空飛行。いよいよ敵地の上空だ。「敵機に厳戒」後上方席に位置する少年飛行兵出身の射手の子供のようにあどけない可愛い声が「敵機なーし」と伝声管から伝わってくる。超低空飛行は敵の電波探知機に捕捉されぬためである。哨戒中の敵P−38戦闘機の裏をかいて無事ラオアグに着陸、敵地に降りたった。牧場のような草原だ。

 兵隊たちが小さい日の丸の旗を振りながら、どこからともなく出てくる。地上滑走中は地面の状況は皆目分からないノロノロの手探り滑走である。突然機がガタンと揺れて停止した。エンジンの出力を増して自力で出ようとすると益々メリ込む。メリ込んでプロペラが地面を叩いて曲がったらもう飛べない。エンジンを止めて伊能準尉とともに機外に出てみる。右車輪が対地攻撃を受けた弾痕のくぼみに落ちている。

 兵隊が、「あの黒煙は中尉殿が着陸される少し前に救出に来た海軍機が撃墜され燃えているのです」と指さす。敵機は「ほんの今、引き上げて行ききました。早く、早くしないとまた次が来ます」
 車輪を引き上げるための機材やロープが負け戦の戦場にあろう筈はない。髪やひげがぼうぼうに伸び、ボロボロの軍服に破れた軍靴、栄養失調で死人のような顔、うつろな目の疲れ果てた軍人がぞろぞろと集まってくる。何がなんでも尾部を担ぎ引っぱり出さねば台湾に戻れない。
 「セーノ、セーノ」と力の限り掛け声を絞り出し死にもの狂いで担ぐ。助かりたい一心、火事場の馬鹿力を越える戦場の馬鹿力。とても常識では考えられぬことだが、重いキー67(4式重爆撃機)の尾部をやっとくぼみから引き上げることが出来た。

 と、その時、ブーンと聞き慣れない爆音が静寂を破り、西の方から聞こえてきた。真っ赤な太陽を背にして敵機がグングンと迫ってくる。「アーッ、敵機だ。伏せろッ」飛び込む防空壕も、タコ壺もない。クモの子を散らすようにして地面に伏せた。
 絶体絶命の時が遂に来た。いつ撃ってくるかと目と耳を押さえて息をこらす。幼いときのことが鮮やかに脳裏をかすめる。殺されてなるものか。24才の短い一生がいとおしい。怖いもの見たさにソット顔を上げてみると、大きな飛行艇がクッキリと輝いて美しい。とても敵機とは思えない。

 コンソリデーテッドPBYカタリーナ飛行艇の切手するとどうしたことか、パイロットが操縦席の窓を開いて手を振りはじめた。小さい瓢箪(ひようたん)のような色眼鏡を掛け赤い顔をしている。こんなに近くで米軍機やアメリカのパイロットを見たのは初めてだ。殺すか殺されるの殺伐な戦場の空で、こんなことがあるものだろうか。私は後方銃座で構えている射手に「撃ってはならぬぞ」と命じた。射手は「敵です。撃たして下さい」と言う。射手はやっとのことで、命令を聞き入れた。

 私は白いマフラーをとって、敵のパイロットに「有り難う、有り難う、殺さないで呉れて有り難う」と振った。豪胆で古武士の風格のある伊能準尉が「敵もさるもの、なかなかアジなことやりんしゃるのう」と叫んだ。
 警戒の網の目をどう潜り抜けて滑り込んできたのか日の丸機に、何のトラブルがあったのか知らぬが、「困っているようだ、見逃してやれ」と思ったのだろう。翼を振ってサッサと南の空に消えていった。ホンの一瞬の出来事であった。
 一刻も早く離陸しないと、敵戦闘機がまた攻撃をかけて来るに相違ない。私は救出した20数名を乗せて月明の海峡を北上し、空襲で燃えている塀東(台湾)の町の火を目標にして無事帰還した。

 あの日あのときから50有余年の歳月が流れた。あの米軍機のキャプテンが「カモがラオアグでエンコしている。カモ・オン」と連絡すれば、愛機は焼かれて、われわれもまたルソンの山中を彷徨し自決したか、あるいは餓死したかも知れない。
 「弱きを助け、強きをくじく」その昔、戦国の武将は敵に塩を送ったではないか。日本の武士の面影をアメリカ軍のパイロットから垣間見て教えられた。おかげで私は今日、こうして平和な繁栄の日本の中で静かに生きている。
 それは昭和20年1月23日、ルソン島北部西岸ラオアグ飛行場、黄昏迫る頃、敵機はコンソリデーテッドPBYカタリーナだったと思う。

 その後、米軍横田基地や米空母「インデペンデント」の知人を介し、「米国在郷軍人会」を通し、あのときの飛行艇のキャプテンを「人探し」してもらったが、見つからず今日に至っている。

(原稿原題:アメリカ軍人の武士道)
 
 (平成22年1月17日午後6時30分、お孫ちゃまをはじめ家族全員に囲まれて89歳の幸せな生涯を眠るように終えられました。合掌)

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12.中国・大連
小松 凱
 私は昭和7年、満州事変直後、現在の中国・大連で生まれました。凱旋の文字から名を取ってますが、3月生れの小さいひ弱な虚弱児童でした。

 父は、鉱山・鉱脈の発見が仕事で、比較的経済的には恵まれていました。出張勝ちな父親の部屋で、私は何やら難しい本を読んでいる本当に大人しい「良い子」でした。冬はスケート靴を履かされて池におろされ、一人で滑って遊び、疲れたら自分で靴を脱いで帰るというのんきな生活でした。
 絶対音階を育てるということで、ピアノは4.5才からやらされていました。お陰で非国民扱いされるし、練習嫌いで、先生の前で本番即練習の不真面目な生徒でした。
 応接間の出窓には、きれいな水晶などの他、ジルコン、鉄鉱石、希金属など...が並べられていました。私はそれらを摺り鉢で摺ったり、強い磁石で選別したりしました。 また、サボテン、竜舌蘭...などがあり、水やりが仕事で、大きくなったら、バナナやパイナップルを植えた温室をもって食べたい....などと夢みていました。

 終戦の年は大連一中の2年生でした。3年生以上は勤労動員ですが私たちは勤労奉仕で、ピラミッドを裏返しにしたような貯水槽を掘っていました。区隊幹部(いまの級長、学級委員)だったので、率先して働かないといけないので、土を盛ったモッコ2台の天秤を直列に並べ、その真ん中(二つまとめて)を肩に担いで運んだりしました。無茶をして斜面で転び前歯2本を折り、痛い思いいとその前歯の入れ歯のコンプレックスはいまもあります。中学のある先生が「勝っても英語は必要だ!通訳のミスを指摘せよ!」と、英語の特訓(ヒッポ方式の暗記)をしてくれました。

 広島、長崎に原爆が投下され、ソ連が宣戦布告参戦し、戦車を先頭に満州に進入してきました。私たちは急遽大連の西側、星ケ浦という海水浴場の近くに戦車壕を掘ることになりました。ソ連軍が殆んど無抵抗の状態でなだれ込んでくるのをラジオで聴きながら、私たちは戦車にやられてしまうのかな?火炎瓶や手流弾を投げることになるのかな?どんな死に方になるのかな?あと一週間の命かな?こんな戦車壕なんてひとたまりもないな、などと、ぼんやり考えたりしながら掘っていました。
 父は短波放送を傍受し、「戦争は負ける!」と言っていました。8月20日いつものように戦車壕を掘っていると、学校に残っていた少数の生徒が、「重要な放送があるから学校へ戻るよう」連絡に来ました。学校に戻り聴いたラジオ放送は、雑音がひどくよく聞き取れませんでしたが、私は、ああ生き残れたか!という感覚でした。

 一週間位してソ連軍が戦車を先頭にやってきました。最初のは「悪い」無統制な兵隊で、マンドリンと呼ばれた自動小銃を持ち、暴行・略奪のし放題でした。
 毎朝、家の前の道路で兵隊たちが「ラスツヴェターリ ヤーブロニ イ グルーシ....」とカチューシャの歌を合唱しながら行進していました。荒っぽい兵隊だけれども歌は上手でした。道路の向こうは戦車隊の住宅に接収され、我が家の応接には戦車隊の将校が住み込みました。その頃大連の中国側勢力はは国民政府と共産八路軍に分かれ、日替わり政権で不安定でしたが、ソ連の秘密警察が取り仕切るようになると、治安は良くなりました。

 大連占領ソ連軍軍票私たちはソ連兵のための臨時の店を作り、パン、ウオッカ、ピーナッツなどを売買、物々交換をしました。学校とソ連兵、将校との実戦でロシア語がよく身に付きました。

 昭和21年の秋には3点引っ越しというのをやらされ、多くの家財を置き去りにしました。
 引き揚げは昭和22年2月で、大連では珍しい大雪の中でした。当時15才の私はトラックの上に乗ったり、埠頭で荷物の間に埋まって見張り番をしたり、重要な戦力でした。
 私は大連が好きで日本に帰るのは耐えられない気持ちの、いまでいう難民でした。考えてみると、8月15日終戦の日から、私はひ弱な良い子から、頑丈な強い男に変貌したのでした。

 
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13.福 井(東京より疎開中)
真田ミチ
 昭和20年8月15日、思いも掛けぬ終戦のことを知った。よく16日、私は疎開先の実家の母に4人の子を託して、一ヶ月足らず前の大空襲で寸断され、やっと開通したばかりの電車に乗って、福井市にある真田の墓地に向かった。空には飛行機の影もなく道に人影もない異様な静けさの中でわが家の墓に跪いて、昭和16年春陸軍士官学校を卒業、開戦のその年の暮れに出征、翌17年シンガポール攻略戦緒戦のブキテマ高地で戦死した夫の若い末弟に、たとえ当時は名誉の戦死として大尉に昇級されるなどの計らいがあったとしても、敗戦となったので、その死の無意味さを心から悲しんだ。

 後で判ったことだが、当時フイリッピンにいた私の実弟も”行方判らず”とのみで、後で戦死という紙片が一枚軍から届いた由。母の思いはいかばかりであったろう。
 ”欲しがりません勝つまでは”との合い言葉で、マレッジ・リングをはじめ私にとっては大切な貴金属を、夫が、また自分の弟が戦地にあると思えばこそ我慢して供出し、すべて軍の発表を鵜呑みに信じさせられていた私にとって、戦争が終わったのだという安堵感とともに「何故こんな戦争を」というやりきれない思いだったことが強く印象に残っている。

 
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14.東 京
清水敏行
 何時空襲の警戒警報が鳴り出すかわからない終戦間近の頃は、ゲートルを脚に巻いて通学し、夜間でもイザというときのためズボンにゲートル姿で寝たものでした。夜、警報が鳴ると、可愛がっていた犬”北京チン”が布団に潜り込んできました。私の足にしがみついていたそのぬくもりは、いまでも忘れることが出来ません。

 私はコッソリと短波受信機を組み立て、外国の放送を楽しんでおりました。これが憲兵に見つかったら投獄されるところです。このため、VOICE OF AMERICAで原子爆弾のことを知り、また終戦もその前日にわかっていました。それで、終戦の前夜はゲートルを付けずに、寝間着姿で横になれたのです。その時の、戦争から離れてほっとした開放感は何とも言い難いものがありました。

 今の人たちにとっては想像がつかないでしょう。終戦で一番嬉しかったことって、そんなバカバカしいこと?と思われるかも知れません。しかしこれは事実です。私がそれを心から実感したのです。
 寝間着姿で寝られる......本当にささやかなことですが、これが終戦で私が真っ先に感じた嬉しいことだったのです。

 振り返ると戦争たけなわの頃、父は遠く離れた南京の日本大使館に勤務していました。昭和20年の正月、その父から一つの便りが届きました。それは「戦争は重大な局面を迎えており、今後二度と家族が顔を合わせることは出来ないと思え。覚悟しておくように」という大意でした。政府の発表とは裏腹な事実の情勢を伝えてきていた父が、これほどの「悲痛な叫び」をあげたのは初めてのことでした。以来私は戦争の悲惨な終結の間近いことを感じつつ、観念しながらじっと耐えているのみでした。

 8月15日、終戦の声を聴き、私はそれまでの緊張から一度に解き放され、へたへたと座り込んでいました。恐らくその時の私の心境は、他人様とはいささか違ったものであったのかも知れません。
 その後一年近くは、夢遊病者のように頭の中がすっかり空虚になって、その間どういう暮らしていたのか、今となっては全く思い出すことが出来ません。しかし、父からのあの悲痛な便りは、戦後まもなく父が無事中国からから引き揚げ、家族が再開できたことに一層大きな喜びを与えるものとなりました。
 戦争の頃を思い出すのは辛いことです。特に後半を書きながら思わず涙しました。今日は辛い一日になりそうです。

中国より引揚げて

 私は、日本で学生生活を送っていたので、父の話である。終戦を迎えても、外地より帰国出来ずに、帰国船が迎えに来るのを、只ひたすらに待っている大勢の人がいた。父は、南京より上海に避難し、収容所で帰国出来る日を待っていたその一人である。何時その日が来るか分からないまま、囲碁、将棋、麻雀などで気を紛らわしながら、無聊の日々を送る寂しく不安な毎日であったであろう。ある日、一人の中国人が尋ねてきて、こう言った。 「一回ぐらい戦争に負けてしょんぼりしているなんて何と言うことだ! 私達中国人は幾度となく大きな災害や戦乱や敗戦の苦難を乗り越えてきたのだ。しっかりしなさいよ!」 と.....父は、はっとすると同時に、中国人の国民性の逞しさを改めて感じ取ったと言う。

 
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15.朝 鮮 (現在の韓国)・光州
中岡恭子
 昭和20年、日本内地では主要都市が次々と爆撃にあい焼け野が原になりつつある中、8月6日には郷里広島に新型爆弾が落とされ、甚大な被害が出ているということで、私は親兄弟、親戚は如何?と心を痛めていました。当時は内地より朝鮮の方が安全といわれていましたが、矢張り荷物を疎開した方が良いのではと考え、2歳になった子供を背負いその準備をしていました。

 8月15日、私は朝からおなかが痛み出し、お昼前にとうとう5ケ月の胎児を早産しました。痛み、悲しみに浸る間もなく、床の中で終戦の玉音放送を聞きましたが、暫くは頭の中が真っ白いになったようで、何の感慨もなく呆然としていました。 フト気が付くと、駅前の大通りなのに人っ子一人いない。しーんと静まり返った街に、真夏の太陽がギラギラ照りつけていたのをいまも忘れられません。

 暫くして、その年の3月に鹿児島県出水市から渡鮮して日が浅く知人が少ないこと、早産して日にちがたっていないこと、周囲は日本人ばかりではないこと、内地とは海を隔てていて、その上2歳の子供を連れて日本に帰ることが出来るだろうか?など、大変不安な気持ちになりました。
 あれから半世紀、日本は戦争が無く平和な日々を過ごしてきました。二度とあの悲惨な戦争を起こしてはならないと思っています。

 
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16.岩 手
永田由蔵
 昭和20年、私は満17歳でした。前年の末にある会社に採用となり、翌年から勤めることになりました。勤務地は岩手県の山中で、少し行けば秋田県というところです。赴任したのは一月で、電柱の先端と同じ高さの所を歩いているほどの積雪でした。場所が場所だけに日本が戦争をしているという感じが都会ほどには強くなく、元兵士が仕事の合間にする戦争の話で、その悲惨さを想像するだけでした。釜石が艦砲射撃を受けたという二ユースも、一日か二日たってから耳にする始末でした。
 統制経済の時代で、一般にものは不足していましたが、それでも一日4合の配給米があり、山間僻地なので魚こそありませんでしたが、肉(馬肉)、野菜(山菜も多かった)があり、ひもじい思いはせず、当時としては不満はありませんでした。

 8月15日は殆んど雲の無い良い天気で、そのうえ村の神社のお祭りで仕事は休み。男たちは朝から酒を飲んでいました。正午から玉音放送があるというので宿舎に帰りましたが、ラジオは雑音が多くて聞き取りにくく、それに難しい言葉のためよく理解出来ませんでした。一緒に聞いていた先輩が、戦争に負けたんだ、われわれは失業してしまうと言っていたのが印象的でした。

 高坂正尭著「宰相吉田茂」の中で、昭和24年頃の吉田茂の言として次のようにあります。「先日イリエ・エーレンブルグというロシアの文学者が、第一次世界大戦中に書いたという詩を読んだ。それには、戦争中のことを後世の者は砲声と弾丸の雨におびえて、暗い生活をしていたと思うだろうが、戦争中でも矢張り花が咲き、人々はそれを見て喜びを覚えたのだ。というような意味のことが書いてあった。歴史上の大事件といったものは、皆そういうものではないだろうか?」著者である高坂は「吉田茂の書いたもの中で、私はこの言葉が一番好きである.....」と述べています。

 支那事変、大東亜戦争時代の私は小学生、中学生で、年令に応じて桑摘み(カイコの餌とする桑の葉を摘む仕事)、イナゴ捕り(イナゴを売って学校の用具を買う)、稲刈り、炭焼きなどの勤労奉仕をさせれましたが、少しも辛いとは思いませんでした。みな御国のためという気持ちで働いたのです。運動会、遠足、学芸会などの行事は楽しい思い出で、神社のお祭りは戦勝祈願で盛大を極めました。私は戦時中、暗い生活ばかりしてきたとは思ってはいませんので、吉田首相のこの言葉が好きです。

 戦争を利用して財をなした人もいるでしょうし、一家の働き手を戦争にとられ、辛い生活を送る状態になった人もいます。自分のせいで境遇が悪化するのは仕方のないことですが、戦争のように誰もが好まない状況で人生を左右されるのは堪らないことです。しかし、人生はいろいろです。その境遇で最善を尽くせばいいのではないかと思う次第です。

 
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17.福 井 (芦屋より疎開中)
鍋倉秀子
 昭和二十年八月七日、広島に原爆が投下されたが、その翌日の夜、兵庫県芦屋市も空襲に遭いわが家も丸焼けとなってしまった。一週間後、一家は父の出生地福井県牛ノ谷の親戚を頼って疎開した。そこは民家が僅か62軒ほどの山村であった。私は栄養不良から来た病気になった五歳の娘をつれ、山一つ越えた石川県大聖寺町の病院に通っていた。八月十五日、その日も娘と一里(約4キロメートル)の山道を歩いての帰路「ポツダム宣言受諾、日本無条件降伏」というビラが、空から舞い落ちてきた。

 私は「そんな馬鹿な、敵の謀略だ」と憤りつつ叔母の家に入った。そこには叔父、叔母、従兄、村人、それに私の夫と姑たちがいて、ラジオの前に集まっていた。何でも重大発表があるのだという。やがて、雑音でよく聞き取れなかったが陛下の御声を初めて拝聴した。沈痛な重々しい玉音。矢張りあのビラは本当だったのだ。私はその時気が付いた。
 男たちは拳を握りしめて食事もとらずに泣き、女たちも敵にどんな目に遭わされるかと泣いている。そんな中で私は「ああ、これで良かった。これで一家が一緒に暮らせるようになる」と嬉しくホッとしたのだが、こんなことを考えた私は天の邪鬼かな?

 しかし、戦災の大阪には住む家もなく、私たちは引き続き疎開先にとどまり百姓のまねごとに明け暮れた。夫、姑、娘と私、一家四人揃って一つ屋根に住めるようになったのは約一年半後。昭和二十二年四月のことであった。

 
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18.岡 山
花岡律子
 私は7つか8つでしたから殆んど戦争の体験を思い出せません。
 実家は岡山の北にある城下町で、めぼしい目標もなかったのか爆弾は落とされませんでした。食べるものは貧しかったけれども、両親、兄弟は健在だったので、戦争の怖さ、悲惨さは少女には理解できなかったようです。

 しかし、ただひとつ、今でも鮮明に残っている記憶があります。それは父と近くの温泉に湯治に行った時のことです。頭から足の先まで真っ白い布で、まるでミイラのようにぐるぐると包帯を巻いた婦人が、夫に抱えられながら温泉に入ってきたのです。その婦人は意識があるのかないのか、まるで死んでいるように見えました。「ピカドンにやられた!」「治療法が判らないのでここに連れてきた!」と。あのときの光景は何時までも忘れることが出来ません。

ピカドンのこと.....
 広島のすぐ近くで生まれ育った私は、今回のインドとパキスタンの核実験の成り行きを、かなりの関心を持って見守ってきました。インドに対抗して、遂にパキスタンも実験を実施したとき、もろ手を挙げて歓声を上げる群衆を見て、私は「彼らは何も知らないのだ!」と、何ともいえない複雑な思いに胸が締め付けられました。「日本も原爆を持っていたら、広島と長崎の悲劇は無かっただろう」とうそぶいたパキスタン首相の発言には、あいた口がふさがりませんでした。

 地球の、その上に生きる総ての生き物に幸いあれ!

<次女代筆>
 
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19.石 川 (東京より疎開中)
林 明子
 終戦の日、私は母方の実家のある石川県の金沢に疎開していました。まちのほぼ中心部にあった長町小学校の6年生で、校庭を耕して野菜を作り、手榴弾を持たされ、敵が攻めてきたら6年生は戦え、と竹槍のけいこ。4,5年生は低学年を連れて逃げるけいこ。小さいながら死ぬ覚悟でいました。

 終戦の玉音放送はよく聞き取れませんでしたが、これで、みな捕まえられて奴隷にされるのかと、とても恐ろしかったのを覚えています。神経がピリピリしていましたね。 すっかり洗脳されていたあの頃の人たちの異常な気持ちは、今の世代の人たちには想像もつかないことでしょう。

 今の平和な毎日を感謝せずにはいられません。

 
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20.広 島 (東京より疎開中)
細田静子
 私どもが結婚した昭和十七年四月、東京に初めての空襲がありました。それまでも防空演習は頻繁にありましたが、その日は突然警報サイレンが鳴り、飛行機の爆音、高射砲のとどろく音は聞こえてきました。でもこれが本物の空襲とは思いませんでした。後にラジオでそれを知らされ、いよいよ来たのかと身が引き締まりました。これが有名なドウリットルの空襲だったのです。
 それから次第に全国各地に空襲が行われるようになり、都市では疎開が始まりました。昭和十九年に長男が生まれましたが、毎日の配給の行列と食糧不足で、仕方なく薬局から栄養剤「わかもと」を買っては空腹を凌いでおりました。子供も弱々しく、ヤミ米は手に入らず、防空壕は掘れず、私たちは昭和二十年一月に、東京千駄ヶ谷の官舎を出て、両親の待つ田舎に疎開することにしました。
 列車は満員で、浜松では空襲に遭い、二日がかりで山陰に着き、トラックに乗って両親のもとに帰ったのです。

 疎開先は空襲もなく、食べ物にも困らず、子育ても天国でしたが、肥桶を担いで農作業の手伝いもしました。また、勤労奉仕で米一俵(60キログラム)づつ倉庫から駅の貨車まで運搬したり、松根堀りといって、油を採るため、松の根を掘り谷下に落とす作業もしました。地下足袋もなく山に登る苦しさといったらありませんでした。たまに炭の配給があると、背負い子に四貫(15キログラム)俵二つ受け取りに炭焼き場まで山を往復しなければならず、都会育ちの私には辛い日々もありました。

 八月六日の広島に原爆が投下された日には県境にいましたので、畑作業をやりながら晴天に走る閃光をを見ました。のちにこれが原爆であったこと、広島にいた母方の親族が全滅したことを知りました。
 広島平和記念都市建設記念切手終戦となって私たちは半年後、東京の夫の元に帰り、毎日を衣類の売り食いと節約で生き延びて来ました。私は戦争中の昭和十六年十二月から二十年八月十五日まで、毎朝目を覚ますと「今日も戦争か」とため息をしていました。ですから、戦争が終わって灯火管制が無くなり、夜が明るくなった時の嬉しさといったらありませんでした。戦争とはこの世の地獄です。

 
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21.愛 知 (横浜より疎開中)
山本道子
 太平洋戦争が勃発したとき、私は12歳でした。早朝のラジオ放送の臨時ニユースが「米英と戦争状態に入れり」とけたたましく繰り返し報道するや、私の家では兄たちが、とても勝てる見込みのない戦いだと言っていました。
 はじめのうちこそ勝利勝利で、時には提灯行列もして浮かれていましたが、昭和18年頃から様子が次第に変わり、女学校では英語の授業が禁止となりました。もっともこれは一部には認められていたようで、私は引き続き授業を受けていました。 やがて国家総動員令が出て、私たちは田奈部隊(弾薬庫)や、明治製菓で働くことになりました。ついで東芝の堀川工場に学徒動員となり、毎日電波探知機の真空管作りに励みました。

 昭和19年頃から空襲が始まり、その都度何回も会社の防空壕に避難しました。ところが翌20年を迎えるとだんだん資材が無くなって、肝心の仕事が出来なくなりました。5月に入ると、空襲は更に頻繁となり、お友達の中には夜勤もしていたため、夜間空襲の際は機械の下に入って命からがら助かった方もいたと聞きました。

 5月29日は忘れもしません米軍の爆撃機500機ほどが横浜絨毯爆撃に来襲しました。その日は、朝8時過ぎに東芝に向かうべく支度をしていたところ、空襲警報が鳴り終わるやいなやもう真上に低空で飛ぶB29の姿がありました。と、同時に空からゴー、ザーと、コンクリート・ミキサーがセメントを流すときの何十倍もの音と火花が見えて、アッという間に周囲が暗くなりました。急いで壕に入りましたが、亡父の製油会社と同じ敷地にいたので、油タンクに引火して猛烈な突風と熱に耐えられなくなり、壕を出て前の焼け跡に逃げることにしました。防火用の水を頭から何杯も掛け、体に火のついたまま走っている人たちに混じって逃げるのですが、竜巻で重い鉄板のようなものまで飛んでくるのを避けながら、這うようにしてようやく墓場の墓石の間にうずくまりました。

 空襲解除になって家に戻ると、庭の大木から、ピアノ、風呂場などあらゆるものが、なめ尽くしたように崩れて灰になっていました。途方に暮れていますと、隣組の方が見えて、「あなたの家は今日は当番なので、軍隊の炊き出しがあるから、山まで受け取りにゆくように」とのことです。母は当時16歳だった私に一人で行くようにと言いました。まだ、あたりはもうもうと焼けくすぶり、屍臭の立ちこめているのに、です。

 仕方なく私はバケツを持って、隣組の人ために出かけましたが、行く先々は死屍累々、ツンと鼻を突く臭いがたまりませんでした。死体はみな真っ黒焦げで顔も定かでなく、思わず目を背けました。炊き出しは夕方から始まり、沢山の人が待っていたので、私が受け取るのは夜になってしまいました。私の順番が来たとき、焼けたトタンの上に投げ出されたアツアツのご飯を、軍人の「握れ!」の合図とともに手にヤケドしながら、夢中で町内の人たちの分を握りました。終わったときは真っ暗で、メラメラと燃える火を明かりに町内に帰ったのですが、道路は焼けた残骸で一杯、死体を踏みつけても判らず、涙しながら我が家まで辿り着き、待っていた皆さんに配給することが出来ました。 「少女よ!あなたは強かった!いまの弱虫は?」と自分に思います。

 その後、私は母と妹と三人で豊橋の伯父の家に身を寄せることになりました。ところがその豊橋も空襲を受け伯父の家は全焼。このため8月15日は伯父の家の防空壕にいました。その日私は、延期になっていた進学予定の学校の入学式が、翌16日に横浜のある飛行機工場で行われるとの通知を受け、決死の覚悟で遺髪を残して参加する準備をしていたのです。

 そのうち伯父がどこからともなく、「お昼に重大放送があるそうな」と聞いてきました。その前には「広島・長崎に新型爆弾が落ちたそうな」ということも焼け野原の中で、ラジオは勿論いまのような情報手段のない中で知っていました。伯父は早耳でした。でも、終戦の放送に関してはよく分からず、「いよいよ本土決戦らしい」というような憶測も飛んでいました。
 焼け残った遠くの家を探して正午のラジオ放送を聞いてきた伯父に「戦争は終わった」と知らされ、私は急に気が抜けてしまいました。そして、連絡も取れないまま横浜行きを中止しました。放送が終わってからも、暫く米軍の艦載機が飛んできたようでした。夕方になり、豊橋駅にパーッと電気が明るく灯ったときの嬉しさはいまでも忘れられません。

 
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22.山 形
吉田和朗
 私の父は職業軍人で、四回目に日中戦争に応召、そのまま第二次大戦となり、昭和17年の春頃戦死したそうです。私は四人兄弟の末っ子で、父親の姿は写真でしか知りません。父は旧制中学中学の教練の教官で、仙台、山形、鶴岡と転勤し、鶴岡中学勤務中に応召したのです。

 空襲は一、二度、米軍機が上空に来たとのことで、庭の防空壕にもぐらされた程度です。12歳で終戦。当日我が家の座敷に十人くらい、近所のおばさんと子供たちが集まり、ラジオの前に正座して、天皇の終戦詔勅放送を聞きました。何を放送されたのかよく理解できませんでしたが、おばさんたちの話しでは大変なことになったということでした。 二・三日して、おばさんたちがお茶を飲みながら、「アメリカ兵が日本に上陸したら、女子供は手のひらに針金を通して飛行機からぶら下げられる」など、恐ろしい話ばかりしていました。

 その後、母は着物、帯などを農家に運び、米、野菜と交換したり、買い出しに行ったり、いま思えば、当時の母は強く、偉かったと思います。
 大本営で統制された一方的な情報しか国民に流されなかった当時には、いまのように、世界の情報がインターネットで一瞬にして手に入る時代になるなど、とても考えられなかったことでした。

 
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23.中国・旅順
遼東太郎
 終戦の日、私は旅順中学2年生で短い夏休みの最中でした。旅順は関東神宮鎮座記念切手日清・日露両戦役の激戦地であったところです。私たちは防空壕を掘ったり、国境を越え南下するソ連軍を迎え撃つのだと、学校に沢山あった日露戦争に使われた三八式歩兵銃の操作訓練を受けていました。玉音放送が終わるとすぐ、いくつかの中華民国国旗が中国人住宅にはためき、一週間後、ソ連の空挺部隊、戦車隊、さらには海軍艦艇群が続々やって来て、タチの悪い兵隊による略奪暴行が続きました。我が家も何度か自動小銃を構えたた兵隊に襲われて家財を持ち去られ、その都度母は天井裏に隠れていました。

 一方、将校の中には礼儀正しい人もいて、ベートーベン、チャイコフスキーなどのレコードをよく聞きに来ました。かれらはその都度、関東軍の金平糖を土産に持ってきたり、ロシア語を教えてくれたりしましたが、これも郵政部門の幹部であった父が逮捕され、10月までに日本人全員が大連に強制移住となっておしまい。同様に捕らえられた級友の父上の中にはその後処刑されたり、収容所で亡くなった方が幾人もいます。
 また、中学には満州各地とか中国本土から来て寄宿舎にいた多くの学友がいました。敗戦後、彼らはソ連軍との戦場なったり、混乱の中で連絡も取れなくなった我が家目指して、軍用の靴下一足に米を詰めたものを当座の食料として受け取り学び舎を後にしました。その後の消息が途絶えた友人も多く、当時の彼らの不安な胸中を思うと今でも心が痛みます。

 大連は前年まで住んでいたのでよく知った街でしたが、何分にもめぼしい家財道具を旅順で失っており、生活のため小学6年生の弟とタバコの立ち売りに始まり、中国人の古道具屋の手伝い、造船所の深夜作業の通訳など懸命に働きました。でも収入は知れたもの、やがて一家が栄養失調になってきました。そこで思い切って方向転換。売り食いをする日本人から着物を買い入れて分解し、母が徹夜で手縫いのワンピースに仕立てたものをハンガーにつるして、ソ連兵相手に「大連土産のワンピース如何?奥さん喜ぶョ」と、冬には気温零下20度近くに下がる街頭で立ち売りをしました。残った派手な裏地は四角く切って「美しい絹のハンカチどうぞ」と小学4年生の妹がこれまたソ連兵に売り込み、それこそ一家総動員で引き揚げまでの足かけ三年を頑張りました。

 ソ連兵から受け取るお金はルーブル紙幣、満州中央銀行券、朝鮮銀行券、日本銀行券、それに乱発された軍票で、建前は等価ですが裏では相場に差があり、子供ながらそれをうまく利用して利益を上げることも覚えました。そうした中でも、午前中は再開された大連一中に通い、友人たちと会うことが心の支えとなりました。同じクラスに後年映画監督となった山田洋次さんとか、タンゴ歌手藤沢蘭子さんの弟さんがおられたのを覚えています。ソ連軍管理下の教育ですから社会主義の必然についても教え込まれましたが、私にとってはそれはどうでもよいこと、もっぱら生活のため中国語とロシア語の授業に聞き入っていました。これは日本に来てからもいろいろな場面で役に立ち大変有り難く思っています。

 祖国の権力が全く力を失った外地で迎えた敗戦ほど惨めなものはありません。日本人が目の前で銃撃され、暴行され、家財を強奪されても誰も助けてあげられない恐怖と悔しさを幾度も味わいました。なまじ声を掛けるとこちらがやられてしまうのです。また、外地で生まれ育ち日本のことを殆んど知らない私は、日の丸を掲げた引き揚げ船に乗船したときは、安堵と同時にこれからの内地での生活がどうなるのか大変不安でした。  いろいろな本に書かれているように、旅順・大連は戦前の日本には例のないほど都市環境の整った欧州風の美しい街で、物価は安く日本人の生活は豊かでした。それが敗戦を境に一変したのです。引き揚げ後は母の病気に加え、経済的にも苦しい時期が続き、進学もあきらめるなど、人には言えない辛いことが沢山ありましたが、私はいつもあの戦後の大連での苦労を偲び耐え忍んできました。

 還暦を迎えたとき、私は頼まれて旅順中学・高女の同級生による記念文集を編集しました。これは珍しい外地における日本人中学生の戦中戦後の記録として、どこから伝え聞いたのか、米国議会図書館はじめいくつかの外国の大学図書館から注文を頂き驚きました。いまも時々読み返して、私たちが少年少女であった頃の日常の異常さと、平和にどっぷり浸かって何か大切なものを見失った、現在の日本の異常さの間にあるあまりの落差を痛感しています。

 
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24.茨 城
渡辺 洋
 昭和20年8月15日、それはよく晴れた暑い夏の日でした。私は故郷茨城県北部の高萩町(現・高萩市)でその日を迎えました。当時高等1年(いまの中一)の私は夏休みの最中で、朝から遊んでいたと思います。ただ、正午にラジオで天皇陛下の重大な放送があると聞かされていましたので、少し緊張と興奮して時間が来るの待っていたような気がします。
 折悪しく自宅のラジオが故障していたので、私たちは近くの叔母の家に集まって、庭に直立不動の姿勢で立ったまま玉音放送を聞きました。ラジオの性能のせいか、また一般人離れの特徴ある昭和天皇の話し方のためもあって、言葉の全部を理解することはできませんでした。しかし、戦争に負けて日本が無条件降伏したということは、私にも察しがつきました。父も、伯父も、その他の大人たちの誰もが、聞き終わっても何も言わずに、半ばうつむいたままでした。

 まだ子供だった私は、軍国主義教育を頭から信じていました。日本は神の国、日本人は神の子、アメリカ人は洋鬼(ヤンキー)だから、神のご加護がある日本は絶対に戦争に勝つ.....と。僕たちは、天皇陛下のために命を捧げるんだ.....と。だから負けたなんて嘘だ、まだこれからも戦って、最後には必ず勝つのだ.....と。でも心のどこかで、自分たちの町も空襲で殆んど焼き尽くされ、近くの日立工業が1トン爆弾攻撃で全滅した ときも、友軍機の姿が全然見えなかったことなど考え合わせ、矢張り負けているのかな?と思うようになりました。・

 ただその頃は日本の兵隊の一部がやったように、進駐してくる連合軍の兵士たちが何をするか判らないからと不安がり、山の方に避難した人々もいました。戦後の生活は悲惨でした。米の配給が殆んどなく、毎日、甘藷、大根、異臭のする干し魚、いまなら家畜の飼料にするようなトウモロコシの粉などで、大豆や、刻んだ馬鈴薯が半分も入ったご飯は最高でした。まだ幼かった弟が、母の分まで奪って食べ、そのため母は食事抜きということもしばしばありました。そのうち、ユニセフの救援物資が入ってきて、米の代わりにザラメとか、食べたことがなく洗濯石鹸のように思えたチーズなどが配給されるようになりました。その他、コッペパン一個が一食というようになったことなど、いまもありありと思い出されます。

 学校では、ガリ版刷りの新聞紙状の教科書を生徒各自が裁断し、進駐軍命令とかで軍国主義的な文章などは墨で塗りつぶし、新しい教育が始まりました。これまで学んだ国史(日本史)が、事実に基づいたものではなく単なる神話にすぎないことを知りました。また、新憲法が発布され、自由、平等、平和の時代となったことを感じました。これまでは軍国主義政府にだまされていたのだということも判りました。

 日本国憲法施行記念の切手あり得なかったことですが、もし、日本が戦争に勝っていたらどうなっていたでしょう。恐らく憲兵など軍人や右翼などが、大いばりで勝手のし放題、自由も平等もなく、勿論、戦争が続き、青年は徴兵でかり出される.....。思うだけでもゾッとします。考えようによっては、日本は無条件降伏し、デモクラシーの国アメリカの指導のもとに、新しい国に生まれ変わることが出来、本当に良かったのではないか、と私は考えました。実際、他の国では、国民が自由と平等を手に入れるために、長い年月と膨大な犠牲。を払っているではありませんか。

 高校3年生の秋、映画「青い山脈」にあこがれ、戦時中は道ですれ違っても声も掛け合わなかった同年齢の女性のいとことその友人たち、それに私の親友たちが一緒に秋の高原にハイキングに行きました。以来、そのグループとの交際は続き来年で50年になります。毎年、自由、平等、平和をモットーに、新年会と旅行を欠かさず楽しく続けています。

 
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