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メーリングリスト会話集 2 |
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(1日に50通〜60通位飛び交っている当会の メーリングリストのメールの一部を抜粋して掲載しています)
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![]() 札幌市 榊原ひさ 09年5月24日 |
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「喋る活動写真が掛かるって話だぞ〜」
「ナニナニ活動写真が喋る?」
銭湯での会話を聞くともなく耳に入ってきた大人の会話が トーキー映画を知った最初の情報なのでした。 信濃の小さな谷間の町でしたが、この時代景気が悪くなったとはいえ近郷に散在する農家は生計を養蚕に頼り、繭玉を集荷の中心市場としての、この町は川筋では一番の繁栄をきわめていた町でもありました。 加えて大小の製糸工場に他県から大勢出稼ぎの女工さん達も街に彩りを添えていました。巷間伝わる「女工哀史」など子供心では知るよしもありませんでした。
寝食を忘れ、労苦を厭わず春繭、夏繭、秋繭と息つく間もなく育てた繭玉もお金に化ければ消費に変わるは世の常と云うものでしょう。町は贅貧取り混ぜ生活必需品すべてをまかなえる商店街も賑わいもみせ、加えて繭玉成金を当て込んでいる花街、小料理屋、曖昧や(娼婦)大人の息つく遊び場も、それなりにささやかな繁栄を謳歌していたのでした。
テレビなど夢想だもしない昭和初期一般大衆の娯楽と云えば、映画芝居に限られていました。小さな町ながら常設映画館と 映画と芝居を兼ねてる小屋二軒が娯楽の殿堂しとして君臨していました。 映画館は椅子席でしたが、芝居も掛かる小屋では、昔ながらの畳敷きの枡席でしたから履き物は下足番に預け、交換に、(い)の五番 (れ)の十九番とか、下足札を下足番から受け取り、帰りに下足札と履き物を交換するのですが、混雑しているときはたいそう時間が掛かり不便でした。 勿論冷暖房の設備などない時代でしたから、暖をとるには、布団を借りたり、懐の暖かい客は、達磨炬燵を借りたりして映画を、芝居を観ていたものでした。夏の暑さ凌ぎには扇子か団扇、汗かきかきの映画、田舎芝居見物も大変でした。 そのころの映画と云えば「地雷也」主演は目玉のまっちゃん事、尾上松五郎、歌舞伎役者上がりだそうですが大変な人気だったようです。 昭和初期の養蚕風景 蚕棚 ↓ ![]() 銭湯での喋る映画の到来はまだ先の話で、かなり以前に創られていた無声映画「忠治旅日記」主演は大河内傳次郎、(お若い会員の皆様は多分ご存じないでしょうね)大変な人気俳優でしたよ。続いて坂東妻三郎主演「雄呂血」なんか無声映画の傑作中の傑作と言われています。今でもフイルム残っていて女性活動写真弁士「沢登 翠」さんが数々の無声映画、洋の東西を問わず活弁として活躍されています。
勿論話題の映画も評判で客入りは悪く無かったそうですが、映画の評判以上に、今度の映画の弁士は誰々とか、弁士によって観客の入りも違ったそうです。記録によると千人を超す活弁士がいたそうですから。 ・・・春は春 春南方のローマンス。 活動写真の暗闇でいつしか咲いた恋の花。 東山三十六峰静かに眠るうしみつ時、突如ひびきわたる剣戟の・・・とか・・・・大まかな台本もあるそうですが、試写をを観れば台本要らず、職人的感覚でアドリブ入りの場景描写、男女の会話も声色弁舌爽やか、銀幕の世界に引きこんでいきました。 そんな活弁士をいっそう際だているのは、舞台(スクリーン)より一段低い囲いの中の楽器奏者達でした。音楽は楽士達の生演奏。楽器は、三味線、太鼓、バイオリン、アコーディオンなどさまざまでした。活動写真、活弁士 音楽士など取り混ぜて「娯楽の王様」と呼ばれるほどの人気でした。 そのような時代にあって、「活動写真が喋る」とは、子供達にもいっそうの好奇心をそそるものでした。私も例外ではありませんでした。小学校の講堂で「喋る活動写真」が映るってぞ〜 その夜、大人も子供も立錐の余地もないくらい講堂を埋め尽くしました。一段高い壇上の背後に垂らされた白幕に映画が写しだされ同時に人声と音楽が流れると、ドット歓声が講堂を揺るがせました。記憶に間違いなければ、軍艦とか兵士の行進とか記録映画に近いもので期待されていたチャンバラではないのですが、始めて音の出る、喋る映画に興奮したものでした。好奇心旺盛な子供達は壇上にかけ上がり、スクリーン幕の後ろに廻り何処から声が音が出るのか、不思議そうに確かめていたものでした。 あの頃から風雪76年余の歳月が流れ活弁偲ぶ仲間も少なくなりました。
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群馬 横幕周蔵 |
![]() コキアの紅葉をひたちなか海浜公園みはらしの丘で 10月初旬写しました。 ドイツの植物学者「Joseph Koch」の名前にちなんで 「コキア」と呼ばれています。日本名は「ほうき草」 |
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●札幌大通り公園 写真一番下(黄色の部分)は毎年恒例の高校生の作った花の絨毯(今年7校だそうです) |
榊原ひさ |
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6月もおしまい。暑くなりました。飯沼トキです。
高野さん、河野さんのモロッコ回想、あの最後のシーン。砂漠のやける 砂の上を裸足でデートリッヒが兵隊の隊列を追う姿、今もはっきり浮かびます。何度目のトーキーでしたかしら。
映画オーケストラの少女、放映があったのは知りませんでしたが高野さんのメ−ルの御蔭で蘇った思い出、聞いてください。
昭和13年の初夏、結婚最初の映画見にと大阪朝日会館に行った時のこと、映画の途中で気が付くと舞台脇の電気掲示板に・飯沼さん受付まで・と出ています。
何事かと主人が受付へいきました。帰って言うには人違いだったよ。呼ばれていたのはあの神風号の飯沼飛行士でした。当時、
大阪朝日に所属でしたから。其の時の映画はオーケストラの 少女、私は結婚前に姉と見たのを主人をがっかりさせないようにと黙っていたのを思い出しました。 ディアナダービンとレオポルドストコフスキー。歌った歌は
ハレルヤだったかと思います。同じ時代の映画、洋画好きで本当に楽しいでしたね。未完成交響楽、嘆きの天使、会議は踊るなど等・・・ ルビさん、ご覧だったではないでしょうか・暗い時代が始っているのに知らなかったのですね。覚えているようでも、違っていることも沢山あるのでしょうね。 飯沼 トキ(90歳)
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飯沼様 懐かしい映画のおはなし、あれもこれもはっきりと目にうかびます。
モロッコのデートリヒ、あの最後の場面、そして素晴らしい足、会議は踊るの
あの音楽も、未完成交響楽 等々
トーキーが初めて入ったのは女学校の2年ぐらいだったように思います。
画面から本当に飛び出すようだと騒いだものです。キネマ旬報の双葉さんの記事もよくよみました。武蔵野館、日比谷の邦楽座、帝国劇場、ゲーリークーパー、ゲーブルどっちがすき? などと、、、わたしはクーパーのフアンでした。
あの頃読んだゲーテの「若きエルテルのなやみ」映画とともに夢多き青春のひと時でした。モンテクリスト伯(岩窟王)も胸をとどろかせて読んだものです。それから続いた激動の時代、いま司馬遼太郎の「とぶが如く」を読んでおります。 それから藤原正彦氏の「国家の品格」 「若き数学者のアメリカ」「遥かなる ケンブリッジ」 ちょっとふうがわりな人物ですが小さいとき(小学生のころ)おれは天才だと家のあちこちに書いたとゆう あっけらかんとした人柄、憎めない論説に共感をおぼえます。維新の前後に外国の人たちがびってくりした日本の教育、庶民生活の素晴らしさ、取り戻したいと思うのです。 老人のたわごと おゆるしくださいませ。 ルビ(89歳)
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すすきのと言えは札幌の歓楽街、モロッコとゆうキャバレーがあるのですか、ヒサ様のメールでおおよそわかりました。羨ましきかぎりです。モロッコで同名の映画を思い出しました。 若き日のゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒの強烈な恋愛映画{名画とは思えませんが・・}で、
ラストシーンで 行進する兵士の隊列のクーパーの後を慕って沙漠のなか、ハイヒールを脱ぎ捨てて走って行くディートリッヒの場面が有名ですね。オーケストラの少女の父親役のアドルフ・マンジューが富豪の役で出演していますね。あの強烈な太鼓の響きを今一度聞きたいものです。 三室さま、1921年生まれのD.ダービンは健在だとおっしゃっておりましたね、それを聞いて何だかホットしました。それとマレーネとジャン・ギャバンとの話、 本当でしょうか? ジャン・ギャバンといえばなんといってもペペル・モコ{望郷} です、あの二人ではにあわないと思いませんか・・? 高野秀男 |
人生の大先輩飯沼さま、ルビさま、高野さまの戦前の映画談義のお仲間に入れていただきます。
★お二人の忘れえぬ映画としてマレ−ネ・ディ−トリッヒの【モロッコ】を挙げておいででした。映画評論家の長老双葉十三郎氏の解説を引用しますと、【昭和6年(1931年)2月僕は新宿武蔵野館で『モロッコ』を観た。これがマレ−ネ・ディ−トリッヒとの最初の出会いだった。やたらに感激して、雪の残った新宿の裏通りを歩きまわった。次に観たのは『嘆きの天使』だった。水着に近い短いスカ−トで黒い網タイツをはいたマレ−ネの歌う『♪浮気のロ−ラ』『♪また恋におちて』の二場面はただもう陶酔するばかりだった】とありました。
☆あの当時の洋画は、モガ、モボと言われた層に大人気でしたのですね。グレタ・ガルボのことも書いてありました。ガルボは早く引退してしまいましたが、ディ−トリッヒは、戦後も1979年まで女優を続けていました。1970年の大阪万博のとき、日本でショ−を行ったそうですね。75歳で引退。1992年パリで90歳の生涯を終わる。遺骸は空路生まれ故郷ベルリンに運ばれ、シェ−ネベルク墓地に向かう棺を乗せた車に、沿道で見送る大勢の人々は花を投げ、みるまに棺は花で覆われました。(その場面はちゃんとドキュメント映画に記録されていました) ★マレ−ネが歌い続けた歌は、自分で作詞し直した♪リリ−・マルレ−ン♪ と、♪花はどこへ行った♪の二曲だったそうです。
★映画とは番外ですが、飯沼さまが書いていらっしゃった、飯沼飛行士は、純国産飛行機【神風号】で昭和12年、東京〜ロンドン間を94時間17分で飛び世界記録を樹立したということで有名なのですね。本で読んだのですが、飯沼飛行士は昭和16年の開戦の三日後に29歳で戦死とありました。惜しい人ですね。
出身地の安曇野に【飯沼記念館】があるそうです。 みむろ |
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(い) 筍の保存法
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(ろ) | 簡単 きゅうりのQちゃん漬け |
@ A B C D E F |
寝かせる時間はかかりますが手間は超簡単 キュウリ10本丸ごと鍋にいれ蓋をしないで2分間茹でます。 火をとめたら、そのまま12時間蓋をしないで置きます。 12時間後@とAをもう一度繰り返します。 下ごしらえの済んだキュウリを2〜3ミリの厚さの輪切りにし、 出来るだけ水気がなくなるよう手で絞り出します。 調味料を合わせます。 醤油 200cc ミリン100cc 酢 20〜30cc タカのツメ 2本 と 土ショウガ適量を刻んで入れます。 調味料を火にかけ、沸騰したらCのキュウリを入れて 2分間煮ます。 そのまま冷まして調味料も一緒にタッパーなどに移し、 上からゴマを振りかけて冷蔵庫に保管します。 |
木更津 平戸あきえ |
(は) | 酢漬け黒豆 (血糖値を下げる!) |
@ A B C D |
黒豆 密閉ビンに1/3位 酢 穀物酢 米酢でOK 黒豆を水洗いし中火で空煎りする、 香りが出て表面が割崩れ始めたらOK ビンに豆をいれ酢を2/3の高さまで注ぐ 1日〜2日位で豆が酢を吸収するのでヒタヒタ程度に酢を足す (3日〜4日間) ビン一杯まで豆が膨らんだら冷暗所に一週間保存する ビンの中身をザルにあけ、酢きりをして完成。 食べ方: 朝晩の食事の前に大匙一杯(5〜10粒)食べる ゆっくりよく噛むこと |
札幌 榊原ヒサ |
●消え行く藁芸術 |
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子供の頃、冬季の父親たちの仕事は藁細工でした。 |
木更津 平戸あきえ |
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● 鶴の北帰行 ![]()
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● jijibabaの皆さん |
「悪性リンパ腫」の診断を受けて入院したのは2年前の今日、7月15日でした。口の中全体が炎症をおこして腫れ上がり、食事もとれない状態で、「癌」の宣告を受けた入院当時の心理状態は今考えるとまさに異常そのものでした。 この間、入院中に皆さんから頂いた心温まる励ましのメールでどれだけ心の安らぎを得たことか。そして、このことが治療の効果を一層促進させたものと信じております。このご恩は終生忘れることが出来ません。 皆さんのメールは大切に保存させて頂いたおります。また、退院後も、何かにつけて温かいお言葉を頂いております。改めて御礼申しあげます。 今は、大川サロンやメールを通して皆さんとおつきあい頂きながら楽しい日々を送らせて頂いております。 若い頃良く口にした、ある有名な人の言葉に「瞬間こそ永遠なれ 汝はかくもうるわしい」という言葉があります。 2年目からは再発可能性30パーセントと言われております。私には、暑さを嘆く時間はありません。いつ再発し命の灯火が消えようとも悔いることのないよう充実した美しいその時、その時を精一杯過ごして行こうと決心しております。皆さん、今後ともよろしくお願いします。 思わず長文になりました。平にご容赦を。 富田禎哉 ● 富田様 あれから2年すぎましたか・・・ 日に日にお元気になられますのを嬉しく拝見しております。 退院なさいました頃の「病後のお疲れ」は今は全くお見受けできません、愉しそうにパソコンで遊んでいらっしゃるご様子からは、かっての病名は浮かんできません。 これからも、皆で一緒に元気に生きてゆきましょうね。 仲間ですもの!!、線友ですもの!! 大川加世子 ![]() 今年「喜寿の祝い」は南アフリカ、ジンバブエのビクトリアフォールズで、しました。 私を囲んで「誕生祝」の踊りを舞ってくれました。 ますますお元気、富田さん!! |
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